Những chỗ | là furigana cho cách đọc trong bản điện tử.
地の巻 鈴 一
――どうなるものか、この天地の大きな動きが。
もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになッてしまえ。
|武《たけ》|蔵《ぞう》は、そう思った。
|屍《かばね》と屍のあいだにあって、彼も一個の屍かのように横たわったまま、そう観念していたのである。
「――今、動いてみたッて、仕方がない」
けれど、実は、体力そのものが、もうどうにも動けなかったのである。武蔵自身は、気づいていないらしいが、体のどこかに、二つ三つ、|銃弾《たま》が入っているに違いなかった。
ゆうべ。――もっと詳しくいえば、慶長五年の九月十四日の|夜《よ》|半《なか》から明け方にかけて、この関ケ原地方へ、土砂ぶりに大雨を落した空は、今日の|午《ひる》すぎになっても、まだ低い密雲を|解《と》かなかった。そして|伊《い》|吹《ぶき》|山《やま》の背や、|美《み》|濃《の》の連山を去来するその黒い迷雲から時々、サアーッと四里四方にもわたる白雨が激戦の跡を洗ってゆく。
その雨は、|武《たけ》|蔵《ぞう》の顔にも、そばの死骸にも、ばしゃばしゃと落ちた。武蔵は、鯉のように口を開いて、鼻ばしらから垂れる雨を舌へ吸いこんだ。
――|末《まつ》|期《ご》の水だ。
|痺《しび》れた頭のしんで、かすかに、そんな気もする。
戦いは、味方の敗けと決まった。|金《きん》|吾《ご》|中納言《ちゅうなごん》|秀《ひで》|秋《あき》が敵に内応して、東軍とともに、味方の石田三成をはじめ、|浮《うき》|田《た》、島津、小西などの陣へ、|逆《さか》さに|戈《ほこ》を向けて来た一転機からの総くずれであった。たった半日で、天下の持主は定まったといえる。同時に、何十万という|同《どう》|胞《ぼう》の運命が、眼に見えず、刻々とこの戦場から、子々孫々までの宿命を作られてゆくのであろう。
「俺も、……」
と、武蔵は思った。|故郷《くに》に残してある一人の姉や、村の|年老《としより》などのことをふと|瞼《まぶた》に|泛《うか》べたのである。どうしてであろう、悲しくもなんともない。死とは、こんなものだろうかと疑った。だが、その時、そこから十歩ほど離れた所の味方の死骸の中から、一つの死骸と見えたものが、ふいに、首をあげて、
「|武《たけ》やアん!」
と、呼んだので、彼の眼は、仮死から覚めたように見まわした。
槍一本かついだきりで、同じ村を飛び出し、同じ主人の軍隊に|従《つ》いて、お互いが若い功名心に燃え合いながら、この戦場へ共に来て戦っていた友達の|又《また》|八《はち》なのである。
その又八も十七歳、|武《たけ》|蔵《ぞう》も十七歳であった。
「おうっ。|又《また》やんか」
答えると、雨の中で、
「武やん生きてるか」
と、|彼方《む こ う》で訊く。
武蔵は精いッぱいな声でどなった。
「生きてるとも、死んでたまるか。又やんも、死ぬなよ、犬死するなっ」
「くそ、死ぬものか」
友の側へ、又八は、やがて懸命に這って来た。そして、武蔵の手をつかんで、
「逃げよう」
と、いきなりいった。
すると武蔵は、その手を、反対に引っぱり寄せて、叱るように、
「――死んでろっ、死んでろっ、まだ、あぶない」
その言葉が終らないうちであった。二人の枕としている大地が、釜のように鳴り出した。真っ黒な人馬の横列が、|喊声《とき》をあげて、関ケ原の|中央《まんなか》を掃きながら、|此方《こ な た》へ殺到して来るのだった。
|旗《はた》|差《さし》|物《もの》を見て、又八が、
「あっ、福島の隊だ」
あわて出したので、武蔵はその足首をつかんで、引き仆した。
「ばかっ、死にたいか」
――一瞬の後だった。
泥によごれた無数の軍馬の|脛《すね》が、|織機《はた》のように|脚速《きゃくそく》をそろえて、敵方の|甲冑武者《かっちゅうむしゃ》を|騎《の》せ、長槍や陣刀を舞わせながら、二人の顔の上を、躍りこえ、躍りこえして、駈け去った。
又八は、じっと|俯《う》ッ伏したきりでいたが、武蔵は大きな眼をあいて、|精《せい》|悍《かん》な動物の腹を、何十となく、見ていた。
二
おとといからの土砂降りは、|秋《あき》|暴《あ》れのおわかれだったとみえる。九月十七日の今夜は、一天、雲もないし、仰ぐと、人間を|睨《にら》まえているような恐い月であった。
「歩けるか」
友の腕を、自分の首へまわして、負うように|援《たす》けて歩きながら、武蔵は、たえず自分の耳もとでする又八の|呼吸《いき》が気になって、
「だいじょうぶか、しっかりしておれ」
と、何度もいった。
「だいじょうぶ!」
又八は、きかない気でいう、けれど顔は、月よりも青かった。
ふた晩も、伊吹山の谷間の湿地にかくれて、|生《なま》|栗《ぐり》だの草だのを喰べていたため、武蔵は腹をいたくしたし、又八もひどい|下《げ》|痢《り》をおこしてしまった。勿論、徳川方では、|勝軍《かちいくさ》の手をゆるめずに、関ケ原崩れの石田、|浮《うき》|田《た》、小西などの残党を狩りたてているに違いはないので、この月夜に里へ這いだしてゆくには、危険だという考えもないではなかったが、又八が、
(捕まってもいい)
というほどな苦しみを訴えて迫るし、居坐ったまま捕まるのも能がないと思って決意をかため、|垂《たる》|井《い》の|宿《しゅく》と思われる方角へ、彼を負って降りかけて来たところだった。
又八は、片手の槍を杖に、やっと足を運びながら、
「武やん、すまないな、すまないな」
友の肩で、幾度となく、しみじみいった。
「何をいう」
武蔵は、そういって、しばらくしてから、
「それは、俺の方でいうことだ。|浮《うき》|田《た》|中納言《ちゅうなごん》様や石田三成様が、|軍《いくさ》を起すと聞いた時、おれは最初しめたと思った。――おれの親達が以前仕えていた|新《しん》|免《めん》伊賀守様は、浮田家の|家《け》|人《にん》だから、その御縁を|恃《たの》んで、たとえ|郷《ごう》|士《し》の|伜《せがれ》でも、槍一筋ひっさげて駈けつけて行けば、きっと親達同様に、|士分《さむらいぶん》にして|軍《いくさ》に加えて下さると、こう考えたからだった。この|軍《いくさ》で、大将首でも取って、おれを、村の厄介者にしている|故郷《くに》の奴らを、見返してやろう、死んだ親父の|無《む》|二《に》|斎《さい》をも、地下で、驚かしてやろう、そんな夢を抱いたんだ」
「俺だって! ……俺だッて」
又八も、|頷《うなず》き合った。
「で――俺は、日頃仲のよいおぬしにも、どうだ、ゆかぬかと、すすめに行ったわけだが、おぬしの母親は、とんでもないことだと俺を叱りとばしたし、また、おぬしとは|許婚《いいなずけ》の|七《しっ》|宝《ぽう》|寺《じ》のお|通《つう》さんも、俺の姉までも、みんなして、郷士の子は郷士でおれと、泣いて止めたものだ。……無理もない、おぬしも俺も、かけがえのない、跡とり息子だ」
「うむ……」
「女や|老人《としより》に、相談無用と、二人は無断で飛び出した。それまでは、よかったが、新免家の陣場へ行ってみると、いくら昔の主人でも、おいそれと、士分にはしてくれない。足軽でもと、押売り同様に陣借りして、いざ戦場へと出てみると、いつも|姦見物《か ま り》の役や、道ごさえの組にばかり働かせられ、槍を持つより、鎌を持って、草を刈った方が多かった。大将首はおろか、士分の首を|獲《と》る|機《おり》もありはしない。そのあげくがこの姿だ、しかし、ここでおぬしを犬死させたら、お通さんや、おぬしの母親に何と、おれは謝ったらいいか」
「そんなこと、誰が武やんのせいにするものか。|敗《ま》け|軍《いくさ》だ、こうなる運だ、何もかも滅茶くそだ、しいて、人のせいにするなら、裏切者の|金《きん》|吾《ご》中納言秀秋が、おれは憎い」
三
|程《ほど》|経《へ》てから二人は、|曠《こう》|野《や》の一角に立っていた、眼の及ぶかぎり|野《の》|分《わき》の後の|萱《かや》である、灯も見えない、人家もない、こんな所を目ざして降りて来たわけでないはずだがと、
「はてな、|此処《ここ》は?」
改めて、自分たちの出て来た天地を見直した。
「あまり、|喋舌《し ゃ べ》ってばかり来たので、道を間違えたらしいぞ」
武蔵が、つぶやくと、
「あれは、|杭《くい》|瀬《ぜ》|川《がわ》じゃないか」
と、彼の肩にすがっている又八もいう。
「すると、この辺は|一昨日《おとつい》、浮田方と東軍の福島と、小早川の軍と敵の井伊や本多勢と、乱軍になって戦った跡だ」
「そうだったかなあ。……俺もこの辺を、駈け廻ったはずだが、何の|記憶《おぼ》えもない」
「見ろ、そこらを」
武蔵は、指さした。
|野《の》|分《わき》に伏した草むらや、白い流れや、眼をやる所に、おとといの|戦《いくさ》で|斃《たお》れた敵味方の|屍《かばね》が、まだ一個も片づけられずにある。|萱《かや》の中へ首を突っ込んでいるのや、仰向けに背中を小川に|浸《ひた》しているのや、馬と重なり合っているのや、二日間の雨にたたかれて血こそ洗われているが、月光の|下《もと》に、どの皮膚も、死魚のように色が変じていて、その日の激戦ぶりを|偲《しの》ばせるに余りがあった。
「……虫が、啼いてら」
武蔵の肩で、又八は病人らしい大きな息をついた、泣いているのは、鈴虫や、松虫だけではなかった、又八の眼からも白いすじが流れていた。
「武やん、俺が死んだら、七宝寺のお通を、おぬしが、生涯持ってやってくれるか」
「ばかな。……何を思い出して、急にそんなことを」
「俺は、死ぬかもわからない」
「気の弱いことをいう。――そんな気もちで、どうする」
「おふくろの身は、親類の者が見るだろう。だが、お通は独りぼっちだ。あれやあ、|嬰児《あ か ご》のころ、寺へ泊った旅の|侍《さむらい》が、置いてき放しにした捨子じゃといった、可哀そうな女よ、武やん、ほんとに、俺が死んだら、頼むぞ」
「|下痢《く だ り》|腹《ばら》ぐらいで、なんで人間が死ぬものか。しっかりしろ」
はげまして――
「もう少しの辛抱だぞ、こらえておれ、農家が見つかったら、薬ももらってやろうし、楽々と寝かせてもやれようから」
関ケ原から不破への街道には、宿場もあり部落もある。武蔵は、要心ぶかく歩きつづけた。
しばらく行くとまた、一部隊がここで全滅したかと思われる程な死骸のむれに出会った。だがもう、どんな屍を見ても、|残虐《むご》いとも、哀れとも二人は感じなくなっていた。そうした神経だったのに、武蔵は何に驚いたのか、又八もぎょっとして足をすくめ、
「あっ? ……」
と軽くさけんだ。
|累《るい》|々《るい》とある屍と屍の間に、誰か、兎のように|迅《はや》い動作で、身をかくした者があった。昼間のような月明りである。じっと、そこを見つめると、|屈《かが》んでいる者の背がよくわかる。
――野武士か?
とは、すぐ思ったことだったが、意外にもそれはまだやっと十三、四歳にしかなるまいと思われる小娘であって|襤褸《つ づ れ》てはいるが|金《きん》|襴《らん》らしい幅のせまい鉢の木帯をしめ、|袂《たもと》のまるい着物を着ているのである。――そしてその小娘もまた|此方《こ な た》の人影をいぶかるものの如く、死骸と死骸との間から、|迅《はし》こい猫のような|眸《ひとみ》を、じっと、射向けているのであった。
四
|戦《いくさ》が|熄《や》んだといっても、まだ素槍や素刀は、この辺を中心に、附近の山野を残党狩りに駈けまわっているし、|死《し》|屍《し》は、随所に、横たわっていて、|鬼哭啾々《きこくしゅうしゅう》といってもよい新戦場である。|年《とし》|端《は》もゆかない小娘が、しかも夜、ただひとり月の下で、無数の死骸の中にかくれ、いったい、何を働いているのか。
「……?」
怪しんでも怪しみ足りないように、武蔵と又八とは息をこらして、小娘の|容《よう》|子《す》を、ややしばし見まもっていた。――が、試みに、やがて、
「こらっ!」
武蔵が、こう怒鳴ってみると、小娘のまろい眸は、あきらかにビクリとうごいて、逃げ走りそうな気ぶりを示した。
「逃げなくともいい。おいっ、訊くことがあるっ」
あわてていい足したが、遅かった。小娘はおそろしく|素《す》|迅《ばや》いのである。後も見ずに、|彼方《む こ う》へ駈け出してゆく。帯の|紐《ひも》か|袂《たもと》に付けている鈴でもあろうか、躍ってゆく影につれて、|弄《なぶ》るような|美《よ》い|音《ね》がして、二人の耳へ妙に残った。
「なんだろ?」
茫然と、武蔵の眼が、夜の|狭《さ》|霧《ぎり》を見ていると、
「|物《もの》の|怪《け》じゃないか」
と、又八はふと身ぶるいした。
「まさか」
笑い消して、
「――あの丘と丘の間へ隠れた。近くに部落があると見える。|脅《おど》さずに、訊けばよかったが」
二人がそこまで登ってみると、果たして人家の灯が見えた、|不《ふ》|破《わ》|山《やま》の尾根をひろく南へ曳いている沢である。灯が見えてからも、十町も歩いた、漸くにして近づいてみると、これは農家とも見えぬ土塀と、古いながら門らしい入口を持った一軒建である。柱はあるが朽ちていて、扉などはない門だった。入ってゆくと、よく伸びた萩の中に、|母《おも》|屋《や》の口は|戸閉《とざ》されてあった。
「おたのみ申します」
まず、軽くそこを叩いて、
「夜分、恐れ入るが、お願いの者でござる。病人を、救っていただきたい、ご迷惑はかけぬが」
――ややしばらく返辞がない。さっきの小娘と、家の者とが、何か、ささやき合っているらしく思える。やがて、戸の内側で物音がした。開けてくれるのかと待っていると、そうではなくて、
「あなた方は、関ケ原の|落人《おちゅうど》でしょう」
小娘の声である。きびきびという。
「いかにも、私どもは、|浮《うき》|田《た》|勢《ぜい》のうちで、|新《しん》|免《めん》伊賀守の足軽組の者でござるが」
「いけません、落人をかくまえば、私たちも罪になりますから、ご迷惑はかけぬというても、こちらでは、ご迷惑になりますよ」
「そうですか。では……やむを得ない」
「ほかへ行って下さい」
「立ち去りますが、連れの男が、実は、|下痢《く だ り》|腹《ばら》で悩んでいるのです。恐れいるが、お持ち合わせの薬を一服、病人へ|頒《わ》けていただけまいか」
「薬ぐらいなら……」
しばらく、考えているふうだったが、家人へ訊きに行ったのであろう、鈴の音につれる|跫《あし》|音《おと》が、奥のほうへ消えた。
すると、べつな窓口に、人の顔が見えた。さっきから外を覗いていたこの家の女房らしい者が、はじめて言葉をかけてくれた。
「|朱《あけ》|実《み》や、開けておあげ。どうせ|落人《おちゅうど》だろうが、雑兵なんか、|御《ご》|詮《せん》|議《ぎ》の勘定には入れてないから、泊めてあげても、気づかいはないよ」
五
|朴《ほお》|炭《ずみ》の粉を口いっぱい|服《の》んでは、|韮《にら》|粥《がゆ》を食べて寝ている又八と、鉄砲で穴のあいた|深《ふか》|股《もも》の傷口を、せッせと|焼酎《しょうちゅう》で洗っては、横になっている|武《たけ》|蔵《ぞう》と、|薪《まき》小屋の中で二人の養生は、それが日課だった。
「何が|稼業《かぎょう》だろう、この家は」
「何屋でもいい、こうして|匿《かく》まってくれるのは、地獄に仏というものだ」
「|内《ない》|儀《ぎ》もまだ若いし、あんな小娘と二人|限《ぎ》りで、よくこんな山里に住んでいられるな」
「あの小娘は、七宝寺のお通さんに、どこか似てやしないか」
「ウム、可愛らしい|娘《こ》だ、……だが、あの京人形みたいな小娘が、なんだって、俺たちでさえもいい気持のしない死骸だらけな戦場を、しかも|真《ま》|夜《よ》|半《なか》、たった一人で歩いていたのか、あれが|解《げ》せない」
「オヤ、鈴の音がする」
耳を澄まして――
「|朱《あけ》|実《み》というあの小娘が来たらしいぞ」
小屋の外で、|跫《あし》|音《おと》が止まった。その人らしい。|啄木《きつつき》のように、外から軽く戸をたたく。
「又八さん、武蔵さん」
「おい、誰だ」
「私です、お|粥《かゆ》を持って来ました」
「ありがとう」
|筵《むしろ》の上から起き上がって、中から|錠《じょう》をあける。朱実は、薬だの食物だのを運び盆にのせて、
「お体はどうですか」
「お蔭で、この通り、二人とも元気になった」
「おっ母さんがいいましたよ、元気になっても、余り大きな声で話したり、外へ顔を出さないようにって」
「いろいろと、かたじけない」
「石田三成様だの、浮田秀家様だの、関ケ原から逃げた大将たちが、まだ捕まらないので、この辺も、御詮議で、大変なきびしさですって」
「そうですか」
「いくら雑兵でも、あなた方を隠していることがわかると、私たちも縛られてしまいますからね」
「分りました」
「じゃあ、お|寝《やす》みなさい、また|明日《あ し た》――」
微笑んで、外へ身を|退《ひ》こうとすると、又八は呼びとめて、
「朱実さん、もう少し、話して行かないか」
「|嫌《いや》!」
「なぜ」
「おっ母さんに叱られるもの」
「ちょっと、訊きたいことがあるんだよ。あんた、|幾歳《い く つ》?」
「十五」
「十五? 小さいな」
「大きなお世話」
「お父さんは」
「いないの」
「|稼業《かぎょう》は」
「うちの|職業《しょうばい》のこと?」
「ウム」
「もぐさ屋」
「なるほど、|灸《やいと》の|艾《もぐさ》は、この土地の名産だっけな」
「伊吹の|蓬《よもぎ》を、春に刈って、夏に干して、秋から冬にもぐさ[#「もぐさ」に傍点]にして、それから|垂《たる》|井《い》の宿場で、|土産《み や げ》|物《もの》にして売るのです」
「そうか……|艾《もぐさ》作りなら、女でも出来るわけだな」
「それだけ? 用事は」
「いや、まだ。……朱実さん」
「なアに」
「この間の晩――俺たちがここの|家《うち》へ初めて訪ねて来た晩さ――。まだ死骸がたくさん転がっている|戦《いくさ》の跡を歩いて、朱実ちゃんはいったい何していたのだい。それが聞きたいのさ」
「知らないッ」
ぴしゃっと戸をしめると、朱実は、|袂《たもと》の鈴を振り鳴らして、|母《おも》|屋《や》のほうへ駈け去った。
|毒《どく》 |茸《だけ》
一
五尺六、七寸はあるだろう、|武《たけ》|蔵《ぞう》は背がすぐれて高かった、よく駈ける|駿馬《しゅんめ》のようである。|脛《すね》も腕も伸々としていて、|唇《くち》が|朱《あか》い、眉が濃い、そしてその眉も必要以上に長く、きりっと眼じりを越えていた。
――|豊《ほう》|年《ねん》|童子《わ ら べ》や。
郷里の|作州《さくしゅう》宮本村の者は、彼の少年の頃には、よくそういってからかった。眼鼻だちも手足も、人なみはずれて寸法が大きいので、よくよく豊年に生まれた児だろうというのである。
|又《また》|八《はち》は、その「豊年童子」にかぞえられる組だった。だが又八のほうは、彼よりいくらか低くて|固《かた》|肥《ぶと》りに出来ていた。|碁《ご》|盤《ばん》のような胸幅が|肋骨《あ ば ら》をつつみ、丸ッこい顔の|団栗眼《どんぐりまなこ》を、よくうごかしながら物をいう。
いつのまに、覗いて来たのか、
「おい、|武《たけ》|蔵《ぞう》、ここの若い後家は、毎晩、|白粉《おしろい》をつけて、|化粧《めか》しこむぞ」
などとささやいたりした。
どっちも若いのである。伸びる盛りの肉体だった、武蔵の|弾《たま》|傷《きず》がすっかり|癒《なお》る頃には、又八はもう|薪《まき》小屋の|湿《じめ》|々《じめ》した暗闇に、じっと|蟋蟀《こおろぎ》のような辛抱はしていられなかった。
|母《おも》|屋《や》の|炉《ろ》ばたにまじって、後家のお|甲《こう》や、小娘の|朱《あけ》|実《み》を相手に、|万《まん》|歳《ざい》を歌ったり、軽口をいって、人を笑わせたり、自分も笑いこけている客があると思うと、それがいつの間にか、小屋には姿の見えない又八だった。
――夜も、薪小屋には寝ない晩のほうが多くなっていた。
たまたま、酒くさい息をして、
「|武《たけ》|蔵《ぞう》も、出て来いや」
などと、引っぱり出しに来る。
初めのうちは、
「ばか、俺たちは、|落人《おちゅうど》の身じゃないか」
と、たしなめたり、
「酒は、嫌いだ」
と、そっけなく見ていた彼も、ようやく|倦《けん》|怠《たい》をおぼえてくると、
「――大丈夫か、この辺は」
小屋を出て、二十日ぶりに青空を仰ぐと、思うさま、背ぼねに伸びを与えて|欠伸《あ く び》した。そして、
「又やん、余り世話になっては悪いぞ、そろそろ|故郷《くに》へ帰ろうじゃないか」
と、いった。
「俺も、そう思うが、まだ伊勢路も、上方の往来も、木戸が厳しいから、せめて、雪のふる頃まで隠れていたがよいと、後家もいうし、あの娘もいうものだから――」
「おぬしのように、炉ばたで、酒をのんでいたら、ちっとも、隠れていることにはなるまいが」
「なあに、この間も、浮田中納言様だけが捕まらないので、徳川方の侍らしいのが、|躍《やっ》|起《き》になって、ここへも|詮《せん》|議《ぎ》に来たが、その折、あいさつに出て、追い返してくれたのは俺だった。薪小屋の隅で、|跫《あし》|音《おと》の聞えるたび、びくびくしているよりは、いっそ、こうしている方が安全だぞ」
「なるほど、それもかえって妙だな」
彼の理窟とは思いながら、武蔵も同意して、その日から、共に母屋へ移った。
お甲後家は、家の中が賑やかになってよいといい、|欣《よろこ》んでいるふうこそ見えるが、迷惑とは少しも思っていないらしく、
「又さんか、武さんか、どっちか一人、朱実の|婿《むこ》になって、いつまでもここにいてくれるとよいが」
と、いったりして、|初心《うぶ》な青年がどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]するのを見てはおかしがった。
二
すぐ裏の山は、松ばかりの峰だった。朱実は、籠を腕にかけて、
「あった! あった! お兄さん来て」
松の根もとをさぐり歩いて、|松《まつ》|茸《たけ》の香に行きあたるたびに、無邪気な声をあげて叫んだ。
少し離れた松の樹の下に、武蔵も、籠を持ってかがみこんでいた。
「こっちにもあるよ」
針葉樹の|梢《こずえ》からこぼれる秋の陽が、二人の姿に、細かい光の波になって|戦《そよ》いでいた。
「さあ、どっちが多いでしょ」
「俺のほうが多いぞ」
朱実は、武蔵の籠へ手を入れて、
「だめ! だめ! これは|紅《べに》|茸《だけ》、これは|天《てん》|狗《ぐ》|茸《だけ》、これも毒茸」
ぽんぽん|選《え》り捨ててしまって、
「私の方が、こんなに多い」
と、誇った。
「日が暮れる――帰ろうか」
「負けたもんだから」
朱実は、からかって、|雉子《きじ》のような|迅《はし》こい足で、先に山道を降りかけたが、急に顔いろを変えて、立ちすくんだ。
中腹の林を斜めに、のそのそと大股に歩いて来る男があった。ぎょろりと、眼がこっちへ向く。おそろしく原始的で、また好戦的な感じもする人間だった。|獰《どう》|猛《もう》そうな毛虫眉も、厚く上にめくれている唇も、大きな野太刀も|鎖帷子《くさりかたびら》も、着ている|獣《けもの》の皮も。
「あけ坊」
朱実のそばへ歩いて来た。黄いろい歯を|剥《む》いて笑いかけるのである。しかし、朱実の顔には、白い戦慄しかなかった。
「おふくろは、家にいるか」
「ええ」
「帰ったらよくいっておけよ。俺の眼をぬすんでは、こそこそ|稼《かせ》いでいるそうだが、そのうちに、|年《ねん》|貢《ぐ》を取りにゆくぞと」
「…………」
「知るまいと思っているだろうが、稼いだ品を|売《こ》かした先から、すぐ俺の耳へ入ってくるのだ。てめえも毎晩、関ケ原へ行ったろう」
「いいえ」
「おふくろに、そういえ。ふざけた|真《ま》|似《ね》しやがると、この土地に置かねえぞと。――いいか」
睨みつけた。そして、運ぶにも重たそうな体を運んで、のそのそと沢のほうへ降りて行った。
「なんだい、あいつは?」
武蔵は、見送った眼をもどして、慰め顔に訊いた。朱実の唇はまだ|脅《おび》えをのこして、
「不破村の|辻《つじ》|風《かぜ》」
と、かすかにいった。
「野武士だね」
「ええ」
「何を怒られたのだい?」
「…………」
「他言はしない。――それとも、俺にもいえないことか」
朱実はいいにくそうに、しばらく惑っているふうだったが、突然、|武《たけ》|蔵《ぞう》の胸にすがって、
「|他人《ひと》には、黙っていてください」
「うむ」
「いつかの晩、関ケ原で、私が何をしていたか、まだ兄さんには分りません?」
「……分らない」
「私は泥棒をしていたの」
「えっ?」
「|戦《いくさ》のあった跡へ行って、死んでいる侍の持っている物――刀だの、|笄《こうがい》だの、|香《にお》い|嚢《ぶくろ》だの、なんでも、お金になる物を|剥《は》ぎ取って来るんですよ。怖いけれど、食べるのに困るし、嫌だというと、おっ母さんに叱られるので――」
三
まだ陽が高い。
武蔵は、朱実にもすすめて、草の中へ腰をおろした。伊吹の沢の一軒が、松の間を|透《す》かして、下に見える傾斜にある。
「じゃあ、この沢の|蓬《よもぎ》を刈って、|艾《もぐさ》を作るのが|職業《しょうばい》だと、いつかいったのは嘘だな」
「え。うちのおっ母さんという人は、とても|贅《ぜい》|沢《たく》な癖のついている人だから、蓬なんか刈っているくらいでは、|生活《く ら し》がやってゆけないんです」
「ふウむ……」
「お父っさんの生きていた頃には、この伊吹七郷で、いちばん大きな|邸《やしき》に住んでいたし、手下もたくさんに使っていたし」
「おやじさんは、町人か」
「野武士の|頭領《か し ら》」
朱実は、誇るくらいな眼をしていった。
「――だけどさっき、ここを通った|辻《つじ》|風《かぜ》|典《てん》|馬《ま》に、殺されてしまった……。典馬が殺したのだと、世間でも皆いっています」
「え。殺された?」
「…………」
|頷《うなず》く眼から、自分でも計らぬもののように、涙がこぼれた。十五とは見えない程、この小娘は|身装《なり》は小さいし、言葉もひどくませ[#「ませ」に傍点]ていた。そして時には、人の目をみはらせるような|迅《はし》こい動作を見せたりするので、武蔵は、|遽《にわ》かに、同情をもてなかったが、|膠《にかわ》で着けたような|睫《まつ》|毛《げ》から、ぽろぽろと涙をこぼすのを見ると、急に抱いてやりたいような|可《か》|憐《れん》さを覚えた。
しかし、この小娘は、決して尋常な教養をうけてはいないらしく思える。野武士という父からの|職業《しょうばい》を、何ものよりいい天職と信じているのだ。泥棒以上な冷血な|業《わざ》も、喰べて生きるためには、正しいものと、母から教えこまれているに違いない。
もっとも長い乱世を通して、野武士はいつのまにか、怠け者で|生命《い の ち》知らずな浮浪人には、唯一の仕事になっていた。世間もそれを|怪《あや》しまないのである。領主もまた戦争のたびに、彼らを利用し、敵方へ火を|放《つ》けさせたり、|流言《りゅうげん》を放たせたり、敵陣からの馬盗みを奨励したりする。もし領主から買いに来ない場合は、戦後の死骸を|剥《は》ぐか、落人を|裸体《は だ か》にするか、拾い首を届けて出るか、いくらでもやることがあって、|一戦《ひといくさ》あれば半年や一年は、|自《じ》|堕《だ》|落《らく》にて食えるのであった。
農夫や|樵夫《き こ り》の良民でさえ、戦が部落の近くにあったりすると、畑仕事はできなくなるが、後のこぼれ[#「こぼれ」に傍点]を拾うことによって、不当な利得の味をおぼえていた。
野武士の専業者は、そのために縄張りを守ることが厳密だった。もし、他の者が、自己の職場を犯したと知ったら、ただはおかない鉄則がある。必ず残酷な私刑によって自己の権利を示すのだった。
「どうしよう?」
朱実は、それを恐れるもののように、戦慄した。
「きっと、辻風の手下が、来るにちがいない……来たら……」
「来たら、俺が、挨拶してやるよ、心配しないがいい」
山を降りて来たころ――沢はひっそり|黄昏《た そ が》れていた、風呂の煙が一つ|家《や》の軒からひろがって、狐色の尾花の上を低く|這《は》っている。後家のお甲は、いつものように、夜化粧をすまして、裏の木戸に立っていた。そして、朱実と武蔵が、寄り添って、帰ってくる姿を見かけると、
「朱実っ――、何しているのだえっ、こんな暗くなるまで!」
いつにない|険《けん》のある眼と声があった。武蔵は、ぼんやりしていたが、この小娘は、母の気持に何よりも敏感である。びくッとして、武蔵のそばを離れたと思うと、顔を|紅《あか》めながら、先へ駈けだしていた。
四
辻風典馬のことを、あくる日、朱実から聞かされて、急に|慌《あわ》てたらしいのである。
「なぜもっと早く、いわないのさ!」
お甲後家は、叱っていた。
そして、戸棚の物、|抽斗《ひきだし》の中の物、|納《な》|屋《や》の物など、|一所《ひとところ》へ寄せ集めて、
「又さんも、武さんも、手伝っておくれ、これをみんな天井裏へ上げるのだから――」
「よし来た」
又八は、屋根裏へ上がった。
踏み台に乗って、武蔵は、お甲と又八の間に立ち、天井へ上げる物を、一つ一つ取り次いだ。
きのう朱実から聞いていなければ、武蔵は|胆《きも》を|潰《つぶ》したに違いない。永い間であろうが、よくもこう運び込んだものと思う。短刀がある、槍の穂がある、|鎧《よろい》の片袖がある。また、鉢のない|兜《かぶと》の八幡座だの、|懐《ふところ》に入るぐらいな|豆《まめ》|厨《ず》|子《し》だの、|数《ず》|珠《ず》だの旗竿だの、大きな物では、蝶貝や金銀で見事にちりばめた鞍などもあった。
「これだけか」
天井裏から、又八が顔を見せる。
「も一つ」
お甲は、取り残していた四尺ほどの|黒《くろ》|樫《がし》の木剣を出した、武蔵が間でうけとった。|反《そ》り味と、重さと固い触感とが、|掌《て》に握ると、離したくない気持を彼に起させた。
「おばさん、これ、俺にくれないか」
武蔵がねだると、
「欲しいのかえ」
「うむ」
「…………」
|遣《や》るとはいわないが、当然、武蔵の意思をゆるしているように、|笑靨《え く ぼ》でうなずく。
又八は、降りて来て、ひどく羨ましい顔をした。お甲は笑って、
「|拗《す》ねたよ、この坊やは」
と、|瑪《め》|瑙《のう》|珠《だま》のついている|革巾着《かわぎんちゃく》を、彼には与えたが、あまり|欣《うれ》しがらなかった。
夕方――この後家は、良人のいたころからの習慣らしく、必ず風呂に入って、化粧して、晩酌をたしなむ。自分のみでなく、|朱《あけ》|実《み》にもそうさせる、性質が派手ずきなのだ、いつまでも若い日でありたい|質《たち》なのだ。
「さあ、みんなお|出《い》で」
|炉《ろ》をかこんで、又八にも|酌《つ》ぐし、武蔵にも杯を持たせた。どうことわっても、
「男が、酒ぐらい飲めないで、どうしますえ。お甲が、仕込んであげよう」
と、手くびを持って、無理に|強《し》いたりした。
又八の眼は、時々、不安な浮かない顔つきになって、じっとお甲の|容《よう》|子《す》に見入った。お甲はそれを感じながら、武蔵の膝へ手をかけ、このごろ|流行《はや》る歌というのを、細い美音で|口《くち》|遊《ずさ》んで、
「今の|謡《うた》は、わたしの心。――武蔵さん、分りますか」
といったりした。
朱実が、顔を|外《そ》|向《む》けているのも|関《かま》わず、若い男の|羞恥《は に か》みと、一方の|妬《ねた》みとを、意識していうことだった。
いよいよ、面白くないように、
「武蔵、近いうちに、もう出立しような」
又八が、或る時いうと、お甲が、
「どこへ、又さん」
「作州の宮本村へさ、|故郷《くに》へ帰れば、これでも、おふくろも、|許嫁《いいなずけ》もあるんだから」
「そう、悪かったネ、|匿《かく》まって上げたりして。――そんなお人があるなら、又さん一人で、お先に立っても、止めはしないよ」
五
|掌《て》でにぎりしめて、ぎゅうと、|扱《しご》いてみると、伸びと|反《そ》りとの調和に、無限な味と快感がおぼえられる。武蔵は、お甲からもらった|黒《くろ》|樫《がし》の木剣を常に離さなかった。
夜もその木剣を抱いて寝た。木剣の冷たい肌を頬に当てると、幼年のころ、|寒《かん》|稽《げい》|古《こ》の|床《ゆか》で、父の|無《む》|二《に》|斎《さい》からうけた烈しい|気《き》|魄《はく》が、血のなかに|甦《よみがえ》ってくる。
その父は、|秋霜《しゅうそう》のように、厳格一方な人物だった。武蔵は幼少にわかれた母ばかりが|慕《した》わしくて、父には、甘える味を知らなかった、ただ煙たくて恐いものが父だった。|九歳《ここのつ》の時、ふと家を出て、|播州《ばんしゅう》の母の所へ、|奔《はし》ってしまったのも、母から一言、
(オオ、大きゅうなったの)
と、やさしい言葉をかけてもらいたい一心からであった。
だが、その母は、父の無二斎が、どういうわけか離縁した人だった、播州の|佐《さ》|用《よ》|郷《ごう》の|士《さむらい》へ再縁して、もう二度目の良人の子供があった。
(帰っておくれ、お父上の所へ――)と、その母が、|掌《て》をあわせて、抱きしめて、人目のない神社の森で泣いた姿を、武蔵は今でも、眼に|泛《うか》べることができる。
間もなく、父の方からは、追手が来て、|九歳《ここのつ》の彼は、裸馬の背に縛られて、播州からふたたび、|美作《みまさか》の吉野郷宮本村へ連れもどされた。父の無二斎はひどく怒って、
(不届者不届者)
と、杖で打って打って打ちすえた。その時のことも、まざまざと、|童《どう》|心《しん》につよく|烙《や》きつけられてある。
(二度と、母の所へゆくと、我子といえど、承知せぬぞ)
その後、間もなく、その母が病気で死んだと聞いてから、武蔵は、|鬱《ふさ》ぎ|性《しょう》から急に手のつけられない暴れン坊になった、さすがの無二斎も黙ってしまった、十手を持って|懲《こ》らそうとすれば、棒を取って、父へかかって来る始末だった、村の悪童はみな彼に|慴伏《しょうふく》し、彼と|対《たい》|峙《じ》する者は、やはり郷士の|伜《せがれ》の又八だけだった。
十二、三には、もう大人に近い|背《せ》|丈《たけ》があった。或る年、村へ|金箔《はく》|磨《みが》きの高札を立てて、近郷の者に試合を挑みに来た有馬喜兵衛という武者修行の者を、矢来の中で打ち殺した時は、
(豊年|童子《わ ら べ》の武やんは強い)
と、村の者に、凱歌をあげさせたが、その腕力で、いくつになっても、乱暴がつづくと、
(武蔵が来たぞ、さわるな)
と、怖がられ、嫌われ、そして人間の冷たい心ばかりが彼に|映《うつ》った。父も、厳格で冷たい人のままでやがて世を去った、武蔵の残虐性は、養われるばかりだった。
もし、お|吟《ぎん》という一人の姉がいなかったら、彼は、どんな|大《だい》それた争いを起して、村を追われていたか知れない。だが、その姉が泣いていう言葉には、いつもすなおに従った。
今度、又八を誘って、|軍《いくさ》へ働きに出て来たのも、そうした彼に、かすかにでも、転機の光がさして来たためともいえる。人間になろうとする意思がどこかで芽をふきかけていた。――けれど今の彼は、ふたたびその方向を失っていた。真っ暗な現実に。
しかし、戦国というあらい神経の世でもなければ、生み出し得ないような|暢《のん》|気《き》さもある若者だった。|微《み》|塵《じん》も、明日のことなどは、苦にしていない寝顔でもある。
故郷の夢でも見ているのだろう、ふかぶかと寝息をかいて。そして例の木剣を、抱いて。
「……武蔵さん」
ほの暗い|短《たん》|檠《けい》の明りを忍んで、いつのまにか、お甲は、その枕元へ来て、坐っていた。
「ま……この寝顔」
武蔵の唇を、彼女の指は、そっと突いた。
六
ふっ! ……
お甲の息が、|短《たん》|檠《けい》の明りを消した。横にのばした体を猫のように縮めて、|武《たけ》|蔵《ぞう》のそばへ、そっと寄り添って。
年のわりに派手な寝衣裳も、その白い顔も、ひとつ闇になって、窓びさしに、夜露の音だけが静かである。
「まだ、知らないのかしら」
寝ている者の抱いている木剣を、彼女が取りのけようとするのと、がばっと、武蔵が|刎《は》ね起きたのと、一緒だった。
「|盗《ぬす》ッ|人《と》!」
短檠の倒れた上へ、彼女は、肩と胸をついた、手をねじ上げられた苦しさに、思わず、
「痛いっ」
と、さけぶと、
「あっ、おばさんか」
武蔵は、手を離して、
「なんだ、盗人かと思ったら――」
「ひどい人だよ、おお痛い」
「知らなかった、ご免なさい」
「謝らなくともいい。……武蔵さん」
「あっ、な、なにをするんだ」
「|叱《し》っ……。野暮、そんな大きい声をするもんじゃありません。私が、おまえをどんな気持で眼にかけているか、よくご存じだろう」
「知っています、世話になったことは、忘れないつもりです」
「恩の義理のと、堅くるしいことでなくさ。人間の情というものは、もっと、濃くて、深くて、やる瀬ないものじゃないか」
「待ってくれ、おばさん、いま|灯《あか》りをつけるから」
「意地悪」
「あっ……おばさん……」
骨が、歯の根が、自分の体じゅうが、がくがくと鳴るように、武蔵は思えた。今まで出会ったどんな敵よりも怖かった。関ケ原で顔の上を|翔《か》けて行った無数の軍馬の下に仰向いて寝ていた時でも、こんな大きな|動《どう》|悸《き》は覚えなかった。
壁の隅へ、小さくなって、
「おばさん、あッちへ行ってくれ、自分の部屋へ。――行かないと、又八を呼ぶぜ」
お甲は、うごかなかった、いらいらとこじれた眼が、睨みつけているらしく、闇のうちで|呼吸《いき》をしていた。
「武蔵さん、おまえだって、まさか、私の気持が、分らないはずはないだろう」
「…………」
「よくも恥をかかしたね」
「……恥を」
「そうさ!」
二人とも、血がのぼっていたのである。で、気のつかない様子であったが、さっきから、表の戸をたたいている者があって、ようやく、それが大声に変って来た。
「やいっ、開けねえかっ」
|襖《ふすま》の隙に、|蝋《ろう》|燭《そく》の光がうごいた。朱実が眼をさましたのであろう、又八の声もしていた。
「なんだろう?」
と、その又八の跫音につづいて、
「おっ母さん――」
朱実が、廊下のほうで呼ぶ。
何かは知らず、お甲もあわてて、自分の部屋から返辞をした。外の者は戸をこじあけて、自分勝手に入り込んで来たものとみえ、土間の方を|透《す》かしてみると、大きな肩幅を重ね合って、六、七名の人影がそこに立ち、
「辻風だ、はやく灯りをつけろ」
と中の一人が怒鳴っていた。
おとし|櫛《ぐし》
一
土足のまま、どやどやと上がってきた、寝込みを|衝《つ》いて来たのである。|納《なん》|戸《ど》、押入、床下と、手分けをして|掻《かき》|廻《まわ》しにかかる。
辻風|典《てん》|馬《ま》は、炉ばたへ坐りこんで、|乾児《こ ぶ ん》たちの|家《や》|捜《さが》しするのを、眺めていたが、
「いつまでかかっているのだ、何かあったろう」
「ありませんぜ、何も」
「ない」
「へい」
「そうか……いやあるまい、ないのが当り前だ、もうよせ」
次の部屋に、お甲は背を向けて、坐っていた、どうにでもするがいいといったように、捨て鉢な姿で。
「お甲」
「なんですえ」
「酒でも|燗《つ》けねえか」
「そこらにあるだろう、勝手に飲むなら飲んでおいで」
「そういうな、久し振りに、典馬が訪ねて来たものを」
「これが、人の家を訪ねるあいさつかい」
「怒るな、そっちにも、|科《とが》があろう、火のない所に煙は立たない。|蓬屋《よもぎや》の後家が、子をつかって、|戦場《いくさば》の死骸から、呑み|代《しろ》を|稼《かせ》ぐという噂は、たしかに、俺の耳へも入っていることだ」
「証拠をお見せ、どこにそんな証拠があって」
「それを、|穿《ほ》じり出す気なら、何も|朱《あけ》|実《み》に前触れはさせておかぬ。野武士の|掟《おきて》がある手前、一応は、家捜しもするが、今度のところは大目に見て|宥《ゆる》しているのだ。お慈悲だと思え」
「誰が、ばかばかしい」
「ここへ来て、酌でもしねえか、お甲」
「…………」
「物好きな女だ、俺の世話になれば、こんな|生活《く ら し》はしねえでもすむものを。どうだ、考え直してみちゃあ」
「ご親切すぎて、恐ろしさが、身に|沁《し》みるとさ」
「嫌か」
「私の亭主は、誰に殺されたか、ご存知ですか」
「だから、仕返ししてえなら、及ばずながら、おれも片腕を貸してやろうじゃないか」
「しらをお切りでないよ」
「なんだと」
「下手人は辻風|典《てん》|馬《ま》だと、世間であんなにいっているのが、おまえの耳には聞えないのか。いくら野武士の後家でも、亭主のかたきの世話になるほど、心まで|落魄《お ち ぶ》れてはいない」
「いったな、お甲」
にが笑いを注ぎこんで、典馬は、茶碗の酒を|仰飲《あお》った。
「――そのことは、口に出さない方が、てめえたち|母娘《お や こ》の身のためだと、俺は思うが」
「|朱《あけ》|実《み》を一人前に育てたら、きっと仕返しをしてやるから、忘れずにいたがよい」
「ふ、ふ」
肩で笑っているのである。典馬は、あるたけの酒を呑みほすと、肩へ槍を立てかけて、土間の隅に立っている|乾児《こ ぶ ん》の一人に、
「やい、槍の尻で、この上の天井板を五、六枚つッ|刎《ぱ》ねてみろ」
と命じた。
槍の石突きを向けて、その男が、天井を突いて歩いた。板の浮いた隙間から、そこに隠しておいた雑多な武具や品物が落ちてきた。
「この通りだ」
典馬は、ぬっと立った。
「野武士仲間の|掟《おきて》だ、この後家をひきずり出して、みせしめ(私刑)にかけろ」
二
女一人だ、無造作にそう考えて、野武士たちは、そこへ踏み込んで行った、しかし、棒でも呑んだように、部屋の口に、突っ立ってしまった、お甲へ手を出すことを怖れるように。
「何をしている、早く、引きずり出して来いっ」
辻風典馬が、土間のほうで|焦心《いら》っている、それでも、|乾児《こ ぶ ん》の野武士たちと、部屋の中とは、じっと、睨み合いのかたちで、いつまでも|埒《らち》があきそうもない。
典馬は舌打ちをして、自身でそこを覗いてみた。すぐお甲のそばへ近づこうとしたが、彼にも、そこの|閾《しきい》は越えられなかった。
炉部屋からは見えなかったが、お甲のほかに、二人の逞しい若者がそこにいたのだ。|武《たけ》|蔵《ぞう》は|黒《くろ》|樫《がし》の木剣を低く持って、一歩でも入って来たらその者の|脛《すね》をヘシ折ろうと構えていたし、又八は、壁の陰に立って、刀を振りかぶり、彼らの首が入口から三寸と出たら、ばさりと斬ッて落そうと、|撓《た》めきッている。
朱実には怪我をさせまいとして、上の押入へでも隠したのか、姿が見えない。この部屋の戦闘準備は、典馬が炉ばたで酒をのんでいる間に整っていたのだ。お甲も、その後ろ楯があるために、落着き払っていたのかも知れなかった。
「そうか」
典馬は思い出して|呻《うめ》いた。
「いつぞや、朱実と山を歩いていた若造があった。一人はそいつだろう、あとは何者だ」
「…………」
又八も武蔵も、一切口は開かなかった。ものは腕でいおうという態度だ。それだけに、不気味なものを漂わせている。
「この家に、|男気《おとこけ》はねえ筈だ、察するところ、関ケ原くずれの宿なしだろう、下手な真似をすると、身の為にならねえぞ」
「…………」
「不破村の辻風典馬を知らぬ奴は、この近郷にないはずだ、|落人《おちゅうど》の分際で、生意気な腕だて、見ていろ、どうするか」
「…………」
「やいっ」
典馬は、|乾児《こ ぶ ん》たちをかえりみて手を振った、邪魔だから|退《ど》いていろというのである。あとさがりに、側をはなれた乾児の一人は、炉の中へ、足を突っこんで、あっといった。|松《まつ》|薪《まき》の火の粉と煙が、天井を|搏《う》ち、いちめんの煙となった。
じっと、部屋の口を|睨《ね》めすえていた典馬は、くそっ、と吠えながら、猛然、その中へ突入した。
「よいしょっ」
待ち構えていた又八は、とたんに両手の刀を|揮《ふ》り降ろしたが、典馬の勢いは、その|迅《はや》さも及ばなかった。彼の刀の|鐺《こじり》のあたりを、又八の刀が、かちっと打った。
お甲は、隅へ|退《の》いて立っていた、その跡の位置に、武蔵は黒樫の木剣を横に|撓《た》めて待っていた、そして典馬の脚もとを目がけて、半身を投げ出すように烈しく払った。
――空間の闇が、びゅっと鳴る。
すると相手は、身をもって、岩みたいな胸板をぶつけて来た。まるで大熊に取っ組まれた感じだ、かつて武蔵が出会ったことのない圧力だった。|咽喉《のど》に、|拳《こぶし》を置かれて、武蔵は、二つ三つ|撲《なぐ》られていた、頭蓋骨が砕けたかと思うほどこたえる、しかし、じっと|蓄《たくわ》えていた息を、満身から放つと、辻風典馬の|巨《おお》きな体は、宙へ足を巻いて、|家《や》|鳴《な》りと共に壁へぶつかった。
三
こいつと見こんだら決して|遁《のが》さない――|噛《か》ぶりついてもあいてを屈伏させる――また、|生《なま》|殺《ごろ》しにはしておかない、徹底的に、やるまでやる。
武蔵の性格は、元来そういう|質《たち》なのだ、幼少からのことである、血液の中に、古代日本の原始的な一面を濃厚に持って生れて来たらしい、それは純粋なかわりに甚だ野性で、文化の光にも磨かれていないし、学問による知識ともまだなっていない生れながらのままのものだった。|真《まこと》の父親の無二斎でさえ、この子を余り好かなかったのは、そういう所に原因していたらしい。その性質を|撓《た》めるために、無二斎がたびたび加えた武士的な|折《せっ》|檻《かん》は、かえって、|豹《ひょう》の子に|牙《きば》をつけてやったような結果を生んでしまったし、村の者が、乱暴者と、嫌えば嫌うほど、この野放しな自然児は、いよいよ逞しく伸び、人も無げに振舞い、郷土の山野をわがもの顔にしただけではあき足らないで、大それた夢をもって、ついに関ケ原までも出かけて来たものだった。
関ケ原は、武蔵にとって、実社会の何ものかを知った第一歩だった。見事にこの青年の夢はペシャンコに|潰《つぶ》れた。――しかし、もともと裸一貫なのだ、それがために、青春の一歩につまずいたとか、前途が暗くなったとか、そんな感傷は、今のところみじんもない。
しかも、今夜は思いがけない|餌《え》にありついた。野武士の|頭《かしら》だという辻風典馬だ。こういう敵にめぐりあいたいことを、彼は関ケ原でもどんなに願っていたことか。
「|卑怯《ひきょう》っ、卑怯っ、やあいっ、待てえっ!」
こう呼ばわりながら、彼は、真っ暗な野を|韋《い》|駄《だ》|天《てん》のように駈けている――
典馬は、十歩ほど前を、これも宙を飛んで逃げてゆくのだった。
武蔵の髪の毛は逆立っていた、耳のそばを、風がうなって流れる、愉快のなんのって、たまらない快感だった、武蔵の血は、身の駈けるほど、|獣《けもの》に近い|欣《よろこ》びにおどった。
――ぎゃっッ。
彼の影が、典馬の背へ、重なるように|躍《と》びかかったと見えた時に、黒樫の木剣から、血が噴いて、こうもの凄い悲鳴が聞えた。
もちろん辻風典馬の大きな体は、地ひびきを打って、転がったのだ。頭蓋骨は、こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]のように柔らかになり、二つの眼球が、顔の外へ浮かびだしていた。
二撃、三撃と、つづけさまに木剣を加えると、折れたあばら骨が、皮膚の下から白く飛びだした。
武蔵は、腕を曲げて、|額《ひたい》を横にこすった。
「どうだ、大将……」
|颯《さっ》|爽《そう》と、一|顧《こ》して、彼はすぐ後ろへ戻って行くのである。なんでもないことのようだった。もし先が強ければ、自分が後に捨てられてゆくだけのこととしかしていなかった。
「――武蔵か」
遠くで又八の声がした。
「おう」
と、のろまな声をだして、武蔵が見まわしていると、
「――どうした?」
駈けてくる又八の姿が見えた。
「|殺《や》った。……おぬしは」
答えて、問うと、
「俺も、――」
|柄《つか》|糸《いと》まで血によごれたものを武蔵に示して、
「あとの奴らは、逃げおった、野武士なんて、みんな弱いぞ」
肩を誇らせて、又八はいう。
血をこねまわしてよろこぶ|嬰児《あ か ご》にひとしい二人の笑い声だった。血の木剣と、血の刀をぶらさげたまま、元気に何か語りあいながら、やがて、|彼方《あ な た》に見える|蓬《よもぎ》の家の一つ|灯《ひ》へ向って帰って行くのであった。
四
野馬が、窓へ首を入れて、家の中を見まわした。鼻を鳴らして、大きな息をしたので、そこに寝ていた二人は眼をさました。
「こいつめ」
武蔵は、馬の顔を、平手で|撲《なぐ》った。又八は、|拳《こぶし》で天井を突きあげるような伸びをしながら、
「アアよく寝た」
「陽が高いな」
「もう日暮れじゃないか」
「まさか」
ひと晩眠ると、もう昨日のことは頭にない、今日と明日があるだけの二人である。武蔵は、早速、裏へとびだして、もろ肌をぬぎ出した。|清《せい》|冽《れつ》な流れで体を拭き、顔を洗い、太陽の光と、深い空の大気を、腹いっぱい吸いこむように仰向いていた。
又八は又八で、寝起きの顔を持ったまま、炉部屋へ行って、そこにいるお甲と|朱《あけ》|実《み》へ、
「おはよう」
わざと、陽気にいって、
「おばさん、いやに|鬱《ふさ》いでいるじゃないか」
「そうかえ」
「どうしたんだい、おばさんの|良人《お っ と》を打ったという辻風典馬は、打ち殺してくれたし、その|乾児《こ ぶ ん》も、|懲《こ》らしてやったのに、|鬱《ふさ》いでいることはなかろうに」
又八の|怪訝《い ぶ か》るのはもっともだった。典馬を討ってやったことはどんなに、この|母娘《お や こ》から|欣《よろこ》ばれることだろうと期待していたのに、ゆうべも、朱実は手をたたいて喜んだが、お甲は、かえって不安な顔を見せた。
その不安を、今日まで持ち越して、炉ばたに沈みこんでいるのが、又八には、不平でもあるし、わけがわからない――
「なぜ。なぜだい、おばさん」
朱実の汲んでくれた渋茶をとって、又八は膝をくむ。お甲は、うすく笑った、世間を知らない若者のあらい神経を|羨《うらや》むように。
「――だって、又さん、辻風典馬にはまだ何百という|乾児《こ ぶ ん》があるんだよ」
「あ、わかった。――じゃあ奴らの仕返しを、恐がっているんだな、そんな者がなんだ、俺と武蔵がおれば――」
「だめ」
軽く手を振った。
又八は、肩を盛りあげて、
「だめなことはない、あんな虫けら、幾人でも来い、それとも、おばさんは、俺たちが弱いと思っているのか」
「まだ、まだ、お前さん達は、わたしの眼から見ても、|嬰《あか》ン坊だもの。典馬には、辻風|黄《こう》|平《へい》という弟があって、この黄平がひとり来れば、お前さん達は、|束《たば》になっても|敵《かな》わない」
これは又八にとって心外なる言葉であった。けれど、だんだんと後家の話すところを聞くと、そうかなあと思わぬこともない。辻風黄平は、木曾の|野《や》|洲《す》|川《がわ》に大きな勢力を持っているばかりでなく、また兵法の達人であるばかりでなく、|乱《らっ》|波《ぱ》(|忍者《し の び》)の上手で、この男が殺そうと|狙《つ》けねらった人間で天寿を|全《まっと》うしている者はかつてなかった。正面から名乗ってくるなら防ぎもなろうが、寝首|掻《か》きの名人には、防ぎがないというのである。
「そいつは、苦手だな、おれのような寝坊には……」
又八が、|腮《あご》をつまんで考えこむと、お甲は、もうこうなっては仕方がないから、この家をたたんで、どこか、他国へ行って暮すほかはない、ついては、おまえさん達二人はどうするかといいだした。
「|武《たけ》|蔵《ぞう》に、相談してみよう。――どこへ行ったろ、あいつめ」
|戸外《お も て》にも、いなかった。手をかざして遠くを見ると、今し方、家のまわりにうろついていた野馬の背にとび乗って伊吹山の裾野を乗りまわしている武蔵のすがたが、遥かに、小さく見えた。
「のん気な奴だな」
又八は、つぶやいて、両手を口にかざした。
「おおいっ。帰って来いようっ」
五
枯れ草のうえに、二人は寝ころんだ。友達ほどいいものはない、寝ころびながらの相談もいい。
「じゃあ、俺たちは、やっぱり|故郷《くに》へ帰ると決めるか」
「帰ろうぜ。――いつまで、あの|母娘《お や こ》と一しょに暮しているわけにもゆくまい」
「ウム」
「女はきらいだ」
武蔵が、いうと、
「そうだな、そうしよう」
又八は、仰向けにひっくり返った。そして青空へ向って、どなるように、
「――帰ると決めたら、急に、おら、お|通《つう》の顔が見たくなった!」
脚を、ばたばたさせて、
「畜生、お通が、髪の毛を洗った時のような雲があるぞ」
と、空を指さす。
武蔵は、自分の乗りすてた野馬の尻を見ていた、人間なかまでも、野に住む者の中にいい性質があるように、馬も野馬は気だてがよい、用がすめば、何も求めず、勝手にひとりでどこへでも行ってしまう。
むこうで、朱実が、
「御飯ですようっ――」
と、呼ぶ。
「飯だ」
二人は起き上がって、
「又八、|馳競《かけ》ッこ」
「くそ、負けるか」
朱実は、手をたたいて、草ぼこりを立てて駈けてくる二人を迎えた。
――だが、朱実は、|午《ひる》すぎから急に沈んでいた、二人が、|故郷《くに》へ帰ると決めたことを聞いてからである。二人が家庭に|交《ま》じってからの愉快な生活を、この少女は、この先も長いものと思っていたらしかった。
「お馬鹿ちゃんだよ、お前さんは、何をメソメソしているのだえ」
夕化粧をしながら、後家のお甲は、叱っていた、そして、炉ばたにいた武蔵を、鏡の中から、睨みつけた。
武蔵はふと、前の晩の、枕元へ迫った後家のささやきと、|甘《あま》|酸《ず》い髪の|香《か》をおもいだして、横を向いた。
横には、又八がいた、酒の|壺《つぼ》を棚から取って、自分の家の物のように勝手に|酒瓶《ち ろ り》へうつしているのだ、今夜はお別れだから大いに飲もうというのである、後家の|白粉《おしろい》は、いつもより念入りだった。
「あるったけ飲んでしまおうよ。縁の下に残して行ったってつまらない」
酒壺を三つも倒した。
お甲は、又八にもたれかかって、武蔵が顔をそむけるような悪ふざけをして見せた。
「あたし……もう歩けない」
又八に甘えて、寝所まで、肩を借りて行く程だった。そして、|面《つら》あてのように、
「武さんは、そこいらで、一人でお寝。――一人が好きなんだから」
と、いった。
いわれた通り武蔵はそこで横になってしまった。ひどく酔っていたし、夜もおそかったし、眼がさめたのは、もう、翌日の陽がカンカンあたっている頃だった。
――起き出て、彼がすぐ気づいたことは、家の中が、がらんとしていることだった。
「おや?」
きのう朱実と後家がひとまとめにしていた荷物がない、衣裳も、|履《はき》|物《もの》も失くなっている。第一、その|母娘《お や こ》のすがたばかりでなく、又八が見えないのだ。
「又八っ。……おいっ」
裏にも、小屋の中にも、いなかった。ただ開け放しになっている水口のしきい[#「しきい」に傍点]|際《ぎわ》に、後家のさしていた|朱《あか》い|櫛《くし》が一枚落ちていただけである。
「あ? ……又八め……」
櫛を鼻につけて|嗅《か》いでみた、おとといの晩の恐い誘惑をその|香《にお》いは思い出させた、又八は、これに負けたのだ、なんともいえない淋しさが胸をつきあげた。
「|阿《あ》|呆《ほう》っ、お通さんを、どうする気か」
櫛を、そこへ、たたきつけた。自分の腹立たしさより、彼を|故郷《くに》で待っているお通のために泣きたい気がする――
|憮《ぶ》|然《ぜん》として、いつまでも、台所にぶっ坐っている武蔵のすがたを見て、きのうの野馬が、のっそりと、軒下から顔を出した。いつものように、武蔵が鼻づらを撫でてやらないので、馬は、流し元にふやけている飯粒を|舐《な》めまわしていた。
|花《はな》|御《み》|堂《どう》
一
山また山という言葉は、この国において初めてふさわしい。|播州《ばんしゅう》|龍《たつ》|野《の》|口《ぐち》からもう山道である、作州街道はその山ばかりを縫って入る、国境の|棒《ぼう》|杭《ぐい》も、山脈の背なかに立っていた、杉坂を越え、中山峠を越え、やがて|英《あい》|田《だ》|川《がわ》の|峡谷《きょうこく》を足もとに見おろすあたりまでかかると、
(おやこんな所まで、人家があるのか)
と、旅人は一応そこで眼をみはるのが常だった。
しかも戸数は相当にある。川沿いや、峠の中腹や、石ころ畑や、部落の寄りあいではあるが、つい去年の関ケ原の|戦《いくさ》の前までは、この川の十町ばかり|上流《かみ》には、小城ながら|新《しん》|免《めん》伊賀守の一族が住んでいたし、もっと奥には、因州|境《ざかい》の|志《し》|戸《ど》|坂《ざか》の銀山に、|鉱《かな》|山《やま》|掘《ほ》りが今もたくさん来ている。
――また鳥取から姫路へ出る者、|但馬《た じ ま》から山越えで備前へ往来する旅人など、この山中の|一《ひと》|町《まち》には、かなり諸国の人間がながれこむので、山また山の奥とはいえ、|旅籠《は た ご》もあれば、呉服屋もあり、夜になると、白い|蝙蝠《こうもり》のような顔をした|飯盛女《めしもりおんな》も軒下に見えたりする。
ここが、宮本村だった。
石を乗せたそれらの屋根が、眼の下に見える|七《しっ》|宝《ぽう》|寺《じ》の縁がわで、お|通《つう》は、
「アア、もうじき、一年になる」
ぼんやり、雲を見ながら、考えていた。
|孤児《みなしご》であるうえに、寺育ちのせいもあろう、お通という|処女《お と め》は、|香《こう》|炉《ろ》の灰のように、冷たくて淋しい。
年は、去年が十六、|許嫁《いいなずけ》の又八とは、一つ下だった。
その又八は、村の|武《たけ》|蔵《ぞう》といっしょに、去年の夏、|戦《いくさ》へとびだしてから、その年が暮れても、沙汰がなかった。
正月には――二月には――と便りの空だのみも、この頃は頼みに持てなくなった。もう今年の春も四月に入っているのだった。
「――武蔵さんの家へも、何の音沙汰がないというし……やっぱり二人とも、死んだのかしら」
たまたま、|他人《ひと》に向って、嘆息をもらして訴えると、あたりまえじゃと、誰もがいう。ここの領主の新免伊賀守の一族からして、一人として、帰って来た者はいないのだ、|戦《いくさ》の後、あの小城へ入っているのは、みな顔も見知らない徳川系の|武士衆《さむらいしゅう》ではないかという。
「なぜ男は、|戦《いくさ》になど行くのだろう。あんなに止めたのに――」
縁がわに坐りこむと、お通は、半日でもそうして居られた、さびしいその顔が、独りで物思うことを好むように。
きょうも、そうしていると、
「お通さん、お通さん」
誰かよんでいる。
|庫《く》|裡《り》の外だった。真っ裸な男が、井戸のほうから歩いてくる、まるで|煤《いぶ》しにかけた|羅《ら》|漢《かん》である。三年か四年目には、寺へ泊る|但馬《た じ ま》の国の雲水で、三十歳ぐらいな若い禅坊主なのだ、胸毛のはえた肌を陽なたにさらして、
「――春だな」
独りでうれしそうにいう。
「春はよいが、|半風子《し ら み》のやつめ、藤原道長のように、この世をばわがもの顔に振舞うから、一思いに今、洗濯したのさ。……だが、このボロ|法衣《ご ろ も》、そこの茶の木には干しにくいし、この桃の樹は花ざかりだし、わしが|生《なま》|半《はん》|可《か》、風流を解する男だけに、干し場に困ったよ。お通さん、物干し竿あるか」
お通は、顔を紅らめて、
「ま……|沢《たく》|庵《あん》さん、あなた、裸になってしまって着物の乾くあいだ、どうする気です?」
「寝てるさ」
「あきれたお人」
「そうだ、明日ならよかった、四月八日の|灌《かん》|仏《ぶつ》|会《え》だから、甘茶を浴びて、こうしている――」
と、沢庵は、真面目くさって、両足をそろえ、|天上天下《てんじょうてんげ》へ指をさして、お|釈《しゃ》|迦《か》さまの真似をした。
二
「――天上天下|唯《ゆい》|我《が》|独《どく》|尊《そん》」
いつまでもご苦労さまに、沢庵が真面目くさって、|誕生仏《たんじょうぶつ》の真似して見せているので、お通は、
「ホホホ、ホホホ。よく似あいますこと。沢庵さん」
「そっくりだろう、それもそのはず。わしこそは|悉《しっ》|達《たる》|多《た》|太《たい》|子《し》の生れかわりだ」
「お待ちなさい、今、頭から甘茶をかけてあげますから」
「いけない。それは謝る」
蜂が、彼の頭をさしに来た。お釈迦さまはまた、あわてて蜂へも両手をふりまわした。蜂は、彼のふんどしが解けたのを見て、その隙に逃げてしまった。
お通は、縁にうつ伏して、
「アア、お|腹《なか》がいたい」
と、笑いがとまらずにいた。
|但馬《た じ ま》の国生れの|宗彭沢庵《しゅうほうたくあん》と名のるこの若い禅坊主には、ふさぎ性のお通も、この青年僧の泊っているあいだは、毎日笑わずにいられないことが多かった。
「そうそうわたしは、こんなことをしてはいられない」
草履へ、白い足をのばすと、
「お通さん、どこへ行くのかね」
「あしたは、四月八日でしょう、|和尚《おしょう》さんから、いいつけられていたのを、すっかり忘れていた。毎年するように、|花《はな》|御《み》|堂《どう》の花を|摘《つ》んできて、|灌《かん》|仏《ぶつ》|会《え》のお支度をしなければならないし、晩には、甘茶も煮ておかなければいけないでしょう」
「――花を摘みにゆくのか。どこへ行けば、花がある」
「|下《しも》の|庄《しょう》の河原」
「いっしょに行こうか」
「たくさん」
「花御堂にかざる花を、一人で摘むのはたいへんだ、わしも手伝おうよ」
「そんな、裸のままで、見ッともない」
「人間は元来、裸のものさ、かまわん」
「いやですよ、|尾《つ》いて来ては!」
お通は逃げるように、寺の裏へ駈けて行った。やがて|負《お》い|籠《かご》を背にかけ、鎌を持って、こっそり裏門からぬけてゆくと、|沢《たく》|庵《あん》は、どこから捜してきたのか、ふとんでも包むような大きな風呂敷を体に巻いて、後から歩いてきた。
「ま……」
「これならいいだろう」
「村の人が笑いますよ」
「なんと笑う?」
「離れて歩いてください」
「うそをいえ、男と並んで歩くのは好きなくせに」
「知らない!」
お通は先へ駈け出してしまう。|沢《たく》|庵《あん》は、|雪《せつ》|山《せん》から降りてきた|釈尊《しゃくそん》のように、風呂敷のすそを|翩《へん》|翻《ぽん》と風にふかせながら、後ろから歩いて来るのであった。
「アハハハ、怒ったのかい、お通さん、怒るなよ、そんなにふくれた顔すると、恋人にきらわれるぞ」
村から四、五町ほど|下流《しも》の|英《あい》|田《だ》|川《がわ》の河原には、|撩乱《りょうらん》と春の草花がさいていた。お通は、負い籠をそこにおろして、蝶の群れにかこまれながら、もうそこらの花の根に、鎌の先をうごかしている――
「平和だなあ」
青年沢庵は、若くして多感な――そして宗教家らしい|詠《えい》|嘆《たん》を洩らしてその側に立った。お通が、せっせと花を刈っている仕事には手伝おうともしないのである。
「……お通さん、おまえの今の姿は、平和そのものだよ。人間は誰でも、こうして、|万《まん》|華《げ》の|浄土《じょうど》に生を楽しんでいられるものを、好んで泣き、好んで悩み、愛慾と|修《しゅ》|羅《ら》の|坩堝《る つ ぼ》へ、われから|墜《お》ちて行って、八寒十熱の炎に身を|焦《や》かなければ気がすまない。……お通さんだけは、そうさせたくないものだな」
三
|菜《な》のはな、春菊、鬼げし、野ばら、すみれ――お通は刈りとるそばから籠へ投げて、
「|沢《たく》|庵《あん》さん、人にお説教するよりは、自分の頭をまた蜂にさされないようにお気をつけなさいよ」
と、ひやかした。
沢庵は、耳も貸さない。
「ばか、蜂の話じゃないぞ、ひとりの|女《にょ》|人《にん》の運命について、わしは釈尊のおつたえをいっているのだ」
「お世話やきね」
「そうそう、よく|喝《かっ》|破《ぱ》した。坊主という|職業《しょうばい》は、まったく、おせッかいな商売にちがいない。だが、米屋、呉服屋、大工、武士――と同じように、これもこの世に不用な仕事でないから有ることも不思議でない。――そもそもまた、その坊主と、女人とは、三千年の昔から仲がわるい。女人は、|夜《や》|叉《しゃ》、魔王、|地《じ》|獄《ごく》|使《し》などと仏法からいわれているからな。お通さんとわしと仲のわるいのも、遠い宿縁だろうな」
「なぜ、女は夜叉?」
「男をだますから」
「男だって、女をだますでしょ」
「――待てよ、その返辞は、ちょっと困ったな。……そうそうわかった」
「さ、答えてごらんなさい」
「お|釈《しゃ》|迦《か》さまは男だった……」
「勝手なことばかしいって!」
「だが、女人よ」
「オオ、うるさい」
「女人よ、ひがみ給うな、釈尊もお若いころは、|菩《ぼ》|提《だい》樹下で、|欲《よく》|染《ぜん》、|能《のう》|悦《えつ》、|可《か》|愛《あい》、などという魔女たちに|憑《つ》きなやまされて、ひどく女性を悪観したものだが、晩年になると、女のお弟子も持たれている。|龍樹菩薩《りゅうじゅぼさつ》は、釈尊にまけない女ぎらい……じゃアない……女を恐がったお方だが、|随順《ずいじゅん》|姉《し》|妹《まい》となり、|愛《あい》|楽《らく》|友《ゆう》となり、|安《あん》|慰《い》|母《ぼ》となり、随意|婢《ひ》|使《し》となり……これ四賢良妻なり、などと仰っしゃっている、よろしく男はこういう女人を選べといって、女性の美徳を|讃《たた》えている」
「やっぱり、男のつごうのいいことばかりいってるんじゃありませんか」
「それは、古代の|天《てん》|竺《じく》国が、日本よりは、もっともっと男尊女卑の国だったからしかたがない。――それから、龍樹|菩《ぼ》|薩《さつ》は、女人にむかって、こういうことばを与えている」
「どういうこと?」
「女人よ、おん身は、男性に|嫁《とつ》ぐなかれ」
「ヘンな言葉」
「おしまいまで聞かないでひやかしてはいけない。その後にこういう言葉がつく。――女人、おん身は、真理に|嫁《か》せ」
「…………」
「わかるか。――真理に嫁せ。――早くいえば、男にほれるな、真理に惚れろということだ」
「真理って何?」
「訊かれると、わしにもまだ分っていないらしい」
「ホホホ」
「いっそ、俗にいおう、真実に嫁ぐのだな。だから都の軽薄なあこがれの子など|孕《はら》まずに、生れた郷土で、よい子を生むことだな」
「また……」
打つ真似をして、
「沢庵さん、あなたは、花を刈る手伝いに来たんでしょう」
「そうらしい」
「じゃあ、|喋舌《し ゃ べ》ってばかりいないで、すこし、この鎌を持って下さい」
「おやすいこと」
「その間に、私は、お|吟《ぎん》様の家へ行って、あした締める帯がもう縫えているかも知れないから、いただいて来ます」
「お吟様。アア、いつかお寺へ見えた婦人の|邸《やしき》か、おれも行くよ」
「そんな|恰《かっ》|好《こう》で――」
「のどが|渇《かわ》いたのだ。お茶をもらおう」
四
もう女の二十五である、きりょうが|醜《みにく》いわけではなし、家がらはよいのだし、そのお吟に嫁入り話がないわけでは決してなかった。
もっとも、弟の|武《たけ》|蔵《ぞう》が近郷きっての暴れんぼで、|本《ほん》|位《い》|田《でん》|村《むら》の又八か宮本村の武蔵かと、少年時代から|悪《あく》|太《た》|郎《ろう》の手本にされているので、
(あの弟がいては)
と、縁遠いところも多少あったが、それにしてもお吟のつつましさや、教養を見こんで、ぜひ――という話は度々あった。しかしその|都《つ》|度《ど》、彼女の断る理由は、いつでも、
(弟の武蔵が、もうすこし大人になるまでは、わたくしが、母となっていてやりとうございますから――)
という言葉であった。
兵学の指南役として|新《しん》|免《めん》|家《け》に仕えていた、父の無二斎がその新免という姓を主家からゆるされた盛りの時代に建てた屋敷なので、|英《あい》|田《だ》|川《がわ》の河原を下にした石築き土塀まわしの家構えは、郷士には過ぎたものであった。広いままに古びて、今では屋根には草あやめ[#「草あやめ」に傍点]が生え、そのむかし十手術の道場としていた所の高窓と|廂《ひさし》のあいだには、燕の|糞《ふん》が白くたかっていた。
永い|牢《ろう》|人《にん》生活の後の貧しい中に父は死んで行ったので、召使もその後はいないが、元の|雇人《やといにん》はみなこの宮本村の者ばかりなので、そのころの婆やとか|仲間《ちゅうげん》とかが、かわるがわるに来ては台所へ黙って野菜を置いて行ったり、開けない部屋を掃除して行ったり、|水《みず》|瓶《がめ》に水をみたして行ったりして、衰えた無二斎の家を守っていてくれている。
今も――
誰か裏の戸をあけて入ってくる者があるとは思ったが、おおかたそれらの中の誰かであろうと、奥の一室に縫い物をしていたお吟は、針の手もとめずにいると、
「お吟さま。今日は――」
うしろへお|通《つう》が来て、音もなく坐っていた。
「誰かと思ったら……お通さんでしたか。今、あなたの帯を縫っているところですが、あしたの|灌《かん》|仏《ぶつ》|会《え》に締めるのでしょう」
「ええ、いそがしいところを、すみませんでした。自分で縫えばいいんですけれど、お寺のほうも、用が多くって」
「いいえ、どうせ、私こそ、ひまで困っているくらいですもの。……何かしていないと、つい、考えだしていけません」
ふと、お吟のうしろを仰ぐと、|燈明皿《とうみょうざら》に、小さな灯がまたたいていた。そこの仏壇には、彼女が書いたものらしく、
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行年十七歳 新免武蔵之霊
同年 本位田又八之霊
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ふたつの|紙《かみ》|位《い》|牌《はい》が貼ってあり、ささやかな水と花とが捧げてあるのだった。
「あら……」
お通は、眼をしばたたいて、
「お吟様、おふたりとも、死んだという|報《し》らせが来たのでございますか」
「いいえ、でも……死んだとしか思えないではございませんか、私は、もうあきらめてしまいました。関ケ原の|戦《いくさ》のあった九月十五日を命日と思っています」
「|縁《えん》|起《ぎ》でもない」
お通は、つよく顔を振って、
「あの二人が、死ぬものですか、今にきっと、帰って来ますよ」
「あなたは、又八さんの夢を見る? ……」
「え、なんども」
「じゃあ、やっぱり死んでいるのだ、私も弟の夢ばかり見るから」
「嫌ですよ、そんなことをいっては。こんなもの、不吉だから、|剥《は》がしてしまう」
お通の眼は、すぐ涙をもった。|起《た》って行って、仏壇の燈明をふき消してしまう。それでもまだ|忌《いま》わしさが晴れないように、|捧《あ》げてある花と水の|器《うつわ》を両手に持って、次の部屋の縁先へ、その水をさっとこぼすと、縁の端に腰をかけていた|沢《たく》|庵《あん》が、
「あ、冷たい」
と、飛びあがった。
五
着ている風呂敷で、沢庵は、顔や頭のしずくをこすりながら、
「こらっ、お通|阿女《あま》、なにをするか。この家で、茶をもらおうとはいったが、水をかけてくれとは誰もいわぬぞ」
お通は、泣き笑いに笑ってしまった。
「――すみません、沢庵さん、ごめんなさいませ」
謝ったり、機嫌をとったり、また、そこへ望みの茶を|汲《く》んで与えたりして、やがて奥へもどって来ると、
「誰ですか、あの人は」
と、お吟は、縁のほうを|覗《のぞ》いて、眼をみはっていた。
「お寺に泊っている若い雲水さんです。ほら、いつか、あなたが来た時に、本堂の陽あたりで、頬づえをして寝そべっていたでしょう。その時、わたしが、何をしているんですかと|訊《たず》ねると、|半風子《し ら み》に|角力《す も う》をとらせているんだと答えた汚い坊さんがあったじゃありませんか」
「あ……あの人」
「え、|宗彭《しゅうほう》沢庵さん」
「変り者ですね」
「大変り」
「|法衣《こ ろ も》でもなし、|袈《け》|裟《さ》でもなし、何を着ているんです、いったい」
「風呂敷」
「ま……。まだ若いのでしょう」
「三十一ですって。――けれど、|和尚《おす》さまに訊くと、あれでも、とても偉い人なんですとさ」
「あれでもなんていうものではありません、人はどこが偉いか、見ただけでは分りませんからね」
「|但馬《た じ ま》の|出石《い ず し》村の生れで十歳で|沙《しゃ》|弥《み》になり、十四歳で|臨《りん》|済《ざい》の勝福寺に入って、|希《き》|先《せん》和尚に|帰《き》|戒《かい》をさずけられ、山城の大徳寺からきた|碩《せき》|学《がく》について、京都や奈良に遊び、妙心寺の愚堂和尚とか泉南の|一《いっ》|凍《とう》|禅《ぜん》|師《じ》とかに教えをうけて、ずいぶん勉強したんですって」
「そうでしょうね、どこか、違ったところが見えますもの」
「――それから、|和泉《い ず み》の南宗寺の住持にあげられたり、また、勅命をうけて、大徳寺の|座《ざ》|主《す》におされたこともあるんだそうですが、大徳寺は、たった三日いたきりで飛びだしてしまい、その後、豊臣秀頼さまだの、浅野|幸《よし》|長《なが》さまだの、細川忠興さまだの、なお|公《く》|卿《げ》方では|烏丸光広《からすまるみつひろ》さまなどが、しきりと惜しがって、一寺を|建立《こんりゅう》するから来いとか、|寺《じ》|禄《ろく》を寄進するからとどまれとかいわれるのだそうですが、本人は、どういう気持か分りませんが、ああやって、|半風子《し ら み》とばかり仲よくして、乞食みたいに、諸国をふらふらしているんですって。すこし、気が|狂《おか》しいんじゃないんでしょうか」
「けれど、向うから見れば、私たちのほうが気が変だというかも知れません」
「ほんとに、そういいますよ。私が、又八さんのことを思い出して、独りで泣いていたりしていると……」
「でも、面白い人ですね」
「すこし、面白すぎますよ」
「いつ頃までいるんです?」
「そんなこと、わかるもんですか、いつも、ふらりと来て、ふらりと消えてしまう。まるで、どこの家でも、自分の|住居《す ま い》と心得ている人ですもの」
縁がわの方から、|沢《たく》|庵《あん》は、身をのばして、
「聞えるぞ、聞えるぞ」
「悪口をいっていたのじゃありませんよ」
「いってもよいが、なにか、あまいものでも出ないのか」
「あれですもの、沢庵さんと来たひには」
「なにが、あれだ、お通|阿女《あま》、お前のほうが、虫も殺さない顔して、その実、よほど|性《たち》が悪いぞ」
「なぜですか」
「人にカラ茶をのませておいて、のろけをいったり泣いたりしている奴があるかっ」
六
|大聖寺《だいしょうじ》の鐘が鳴る。
七宝寺のかねも鳴る。
夜が明けると早々から、|午《ひる》過ぎも時折、ごうんごうんと鳴っていた。赤い帯をしめた村の娘、商家のおかみさん、孫の手をひいてくる|老婆《としより》たち。ひっきりなし寺の山へ登って来た。
若い者は、参詣人のこみあっている七宝寺の本堂をのぞき合って、
「いる、いる」
「きょうは、よけいに綺麗にして」
などと、お通のすがたを見て、|囁《ささや》いて行く。
きょうは|灌《かん》|仏《ぶつ》|会《え》の四月八日なので、本堂の中には、|菩《ぼ》|提《だい》|樹《じゅ》の葉で屋根を|葺《ふ》き、野の草花で柱を埋めた|花《はな》|御《み》|堂《どう》ができていた、御堂の中には甘茶をたたえ、二尺ばかりの釈尊の黒い立像が天上天下を指さしている、小さな|竹《たけ》|柄杓《びしゃく》をもって、その頭から甘茶をかけたり、また、参詣人の求めに応じて、順々にさし出す竹筒へ、その甘茶を汲んでやっているのは、|宗彭《しゅうほう》沢庵であった。
「この寺は、貧乏寺だから、おさい銭はなるべくよけいにこぼして行きなよ。金持は、なおのことだ、一|杓《しゃく》の甘茶に、百貫の|金《かね》をおいてゆけば、百貫だけ苦悩がかるくなることはうけあいだ」
花御堂を挟んで、その向って左側にお通は塗机をすえて坐っていた、仕立ておろしの帯をしめ、|蒔《まき》|絵《え》のすずり箱をおき、五色の紙に、|禁厭《まじない》の歌をかいて、それを乞う参詣者に|頒《わ》けているのである。
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ちはやふる
|卯《う》|月《づき》|八《よう》|日《か》は|吉《きち》|日《にち》よ
かみさげ虫を
|成《せい》|敗《ばい》ぞする
[#ここで字下げ終わり]
家の中へこの歌を貼っておくと、虫除けや悪病よけになるとこの地方ではいい伝えている。
もう手くびの痛くなるほど、お通は、同じ歌を何百枚もかいた、|行《こう》|成《ぜい》|風《ふう》のやさしい文体が少しくたびれかけていた。
「沢庵さん」
――と彼女はすきを見ていった。
「なんじゃい」
「あまり、人様に、おさい銭の催促をするのはよして下さい」
「金持にいっているんだよ、金持の金をかるくしてやるのは、善の善なるものだ」
「そんなことをいって、もし今夜、村のお金持の家へ泥棒でも入ったらどうしますか」
「……そらそら、すこしすいたと思ったらまた参詣人が|混《こ》んで来たよ。押さないで、押さないで――おい若いの――順番におしよ」
「もし、坊さん」
「わしかい?」
「順番といいながら、おめえは、女にばかり先へ汲んでやるじゃないか」
「わしも|女《おな》|子《ご》は好きだから」
「この坊主、|極《ごく》|道《どう》|者《もの》だ」
「えらそうにいうな、お前たちだって、甘茶や虫除けが貰いたくて来るんじゃあるまい、わしには、分っている、お釈迦さまへ|掌《て》をあわせに来るのが半分で、お通さんの顔を拝みにくる奴が半分。お前らも、その組だろう。――こらこらおさい銭をなぜおいてゆかん、そんな|量見《りょうけん》では、女にもてないぞ」
お通は、真っ|紅《か》になって、
「沢庵さん、もういいかげんにしないと、ほんとに私、怒りますよ」
と、いった。
そして、疲れた眼でも休めるように、ぼんやりしていたが、ふと、参詣人の中に見えた一人の若者の顔へ、
「あっ……」
と口走ると、指の間から筆を落した。
彼女が、起つと共に、彼女の見た顔は、魚のようにすばやく|潜《ひそ》んでしまった。お通は、われを忘れて、
「|武《たけ》|蔵《ぞう》さんっ、武蔵さんっ……」
廻廊のほうへ駈けて行った。